FUJITA CANOE

藤田清とフジタカヌー

◇藤田 清(Kiyoshi Fujita 1930-2022)

 昭和5 年10 月7 日 京都市の中心新京極の日本一の化粧品屋の長男として生まれる。
京都一中のころ、戦時中に三菱重工桂製作所に航空発電機の生産に動員され、旋盤など
の機械を動かす。終戦になり、家業の化粧品店を継ぐことになった。

藤田清は毎日新しいことをやってみたいという思いを抱きながら、仕事の合間にオートバイを自作し琵琶湖を一周しました。ある時比叡山に登り、果てしなく続く琵琶湖を見てここで遊ぼうと決め凝り性が発揮されてヨット、モーターボートを3隻も自作しました。しかし何ごとにもひととおりの経験をしてしまうと、あとは単調さもあって何となくうらさみしい気持ちが頭をもたげてくるのでした。

自作のオートバイ
自作のオートバイ
自作のモータボート
自作のモータボート
琵琶湖でボートにて
琵琶湖でボートにて

◇高木公三郎先生との出会い
(Kimisaburo Takagi 1907-1991 京都大学名誉教授)

 高木先生は天文学、スポーツ医学が専門です。1964年に開催となった東京オリンピックを誘致するために、1936年のベルリンオリンピックに評議員として視察に行かれました。
 その視察旅行中の競技のない休日のことでした。湖でレジャーカヌーにお婆さんが孫をのせて、1日中日向ぼっこをしていたのをご覧になり、「不思議な光景」「本当のスポーツはここから始まるんだ」と仰っていました。先生は京大ボート部のコックスからコーチとして活躍されたほどの経験者なのですが、常に底辺の普及を考えておられました。

高木公三郎先生と奥様
高木公三郎先生と奥様


 種目ごとのカヌーを日本に持って帰られた中に、クレッパーという折畳カヌー(レジャー用カヌー)がありました。これを日本にも普及させようと考え、いざ奥様と出かけましたが、ドイツ製の2人艇は45Kgもありサイズも5mと大きく大変だったようです。
 そこで日本人の体格に合わせて小さく軽量のカヌーを考案されました。

 自作のヨットやモーターボートを操って琵琶湖で遊んでいた当時、高木先生に「ちょっと来ませんか」と誘われて、瀬田川で乗せてもらったファルトボートの面白さに魅了されました。気軽な気持で乗ってみたその小さなボートが意外に面白いのです。

琵琶湖柳ケ崎にてモータボート1号艇親友森田氏と
琵琶湖柳ケ崎にてモータボート1号艇親友森田氏と

なにしろボートの面白さといえるものは全て備えているし、しかも自分の体の一部のごとく操ることができる。

高木先生考案のファルトボートに夢躍らせる
高木先生考案のファルトボートに夢躍らせる

「ひと漕ぎしてみてヨットやボートにはない楽しさがあり、身一つで自然の中に飛び込んでいく感覚」さらに「急流下りをしたい」とせがんで木津川に連れてもらい、木津川の自然の美しさに心躍りました。

高木先生と試作
高木先生と試作
ファルトボート2号艇
ファルトボート2号艇
120cmのコンパクトな収納袋
120cmのコンパクトな収納袋

「移り変わる景色の美しさと急流下りのスリルがまたこたえられない」高木先生はこのファルトボートを日本で普及させたいと考案されたのですが、藤田清はそれを「お粗末」と言ってしまったのです。そして、高木先生に「そんならあんたやってみてごらん」と言われました。

人目を引くカヌーの組みたて
人目を引くカヌーの組みたて

昭和25年(1950)のことです。

 父末一の経営する化粧品店が廃業となったこともあり、本格的に折り畳みカヌーの研究・開発に取り組むこととなりました。しかし、現物はもちろん、文献すらも中々手に入らない時代で、やっと見つけた外国語の文献も語学に堪能ではなかったので理解できずに苦労しました。
 住友電工、木材開発、角一ゴム(クラレプラスティック)、ヤマハ発動機、永大産業、日本ビクターなどで折り畳みカヌーの研究製作に取り組みました。

 

永大エイペットW 型転覆テスト
永大エイペットW 型転覆テスト

東レとの共同開発で、ナイロンを使って新しい船体布(折畳カヌーの外皮)の生地を開発するプロジェクトで試作品のテストをしていた時に、ナイロンが伸びが大きすぎて使えないという事が分かり興奮して上司に伝えたところ。。。
 「おまえ、自分で自分の首を絞めるのか」と言われて「ダメなものはダメなんです」と返し、そのプロジェクトが終わってしまったというエピソードもありました。

遊覧船にまじるファルトボート(瀬田川)
遊覧船にまじるファルトボート(瀬田川)


 景気が良くなると新規事業で採用され、悪くなると撤退の繰り返しで最後はオイルショックで部門閉鎖でした。別のポストを用意するから残ってくれと言われても、「僕はカヌーしかしません」と断りました。

 1976 年、46 才の時オイルショックでビクター工芸社を解雇されました。

ビクター1人艇 タイプGS
ビクター1人艇 タイプGS
ビクター2人艇 タイプYT
ビクター2人艇 タイプYT

 大きな企業に入ってカヌーの製造を続けてきましたが、企業にとっては単なる商材であり、景気や業績が悪くなるとすぐに切り捨てられてしまいます。
 「もうやめちゃおうか、無理なのかもしれない」と思いましたが、でも諦められない、ここでやめては日本のカヌー研究は振出しに戻る、責任感もありましたが何よりカヌーが本当に好きだったのです。
 こうしてついに、独力でカヌー製作会社設立を心に決めました。第一歩は神奈川県座間市の自宅裏の小屋で始まり、その後自宅を処分して京都に戻り町工場の片隅を借りました。2年目には工場を大津へ移すうち、売上も少し伸びてきました。

親子3 人で楽しむ(猪苗代湖)
親子3 人で楽しむ(猪苗代湖)

そんな時、高木先生に連れてきてもらいその後自分で毎週通った木津川に惹かれ、川下りに笠置を訪れてそこで偶然永井町長に出会いました。
「これからは、おまはんらの時代や」と言って笠置中学校の用地として用意してあった土地(実際は大河原に建設となった)を「ここでやれ」と紹介してくれました。この協力もあって、笠置で製造工場と普及の拠点が揃うことになり、最終的に笠置に決まりました。

 当初はスタッフもいませんから、平日は製造、週末は教室、ツアーとフル回転でした。徐々に社員も増え、少しづつですが販売も拡大していき、より良いカヌーを作りたいと新しい素材にもチャレンジしました。また、木津川の教室のみならず沖縄から北海道までツアーを開催しました。日本カヌー工業会の理事、レジャースポーツ振興協会の委員などをつとめました。
 こんなこともありました、カヌー工業会で今でも高い評価をいただいている「A-1」の型を提供するから「公式のスクール艇として使ってください」と提案しましたが、「自分とこのカヌーを売り込むためにか!」と却下されたそうです。「お金のことはどうでもよくてカヌー普及のために提案したのに情けない」と言っていました。

工場もスタッフがそろいようやく軌道に乗ってきたのは7年目の頃でした。高木先生は、「よく学びよく遊べ」「日本人は遊びが下手だ」「ファルトボートを流行らせたい」と常々語り、ベルリンの地で触れた遊びとしてのカヌーの普及に力を入れておられました。藤田清はその思いを引継ぎ、一人でも多くの人に本当のカヌーの楽しさを知ってもらいたい、乗ってほしいとファルトボートを作り、それを普及させることに全力を注ぎました。
初心者にもベテランにも扱いやすいフネを目指して、「ベンツじゃなくてカローラなんや」と言って、売上げが落ちて経営が苦しくなっても「値上げはあかん、その分たくさん売ったらええ」と言っていました。

製作スタッフとともに
製作スタッフとともに

 藤田清とカヌーの川下りの楽しさは、風景をめでながらその急流下りのスリルを楽しみながら下ることにあります。これにキャンプでの楽しさが組み合わせられると尚一層だったのです。焚火を囲んでゲームをしたり歌ったり、或いは月の光でカヌーのこと、人生のことなどを語り合ったり、それは生涯忘れることの出来ない思い出として、無意識のうちに心の支えとなっていると語っていました。

A-1 艇で木津川を漕ぎ下る
A-1 艇で木津川を漕ぎ下る

 「水のある景色は美しい。しかし水の上から眺める景色はもっと素晴らしい」
これは藤田のカヌーの恩師、高木公三郎先生の言葉です。後に藤田は、「陸の上に生活する人類にとって水の上はまた別の世界であり、それは外へ伸びようとする人間の一般的心理に訴えてくる何ものかを秘めている。京都に生まれ、京都に育った私にとって、山の向こうに大きく広がるびわ湖は、まさにこの心理にごく自然にマッチする位置にあった。私がカヌーをなりわいとするまでに至ったのは、この子供の頃の条件が大きく働いている。」と回顧し、雑誌自己表現に寄稿しています。

  いつも心を和ませてくれる自然環境、水環境を次の世代の子供たちに引き継いでいかなければならない、藤田はそう思いました。木津川の環境の変化を長年にわたって目の当たりにしていたからです。水環境に関する催しに積極的に参加し意見交換をしました。木津川流域のシンポジウム、大和川クリーン作戦、大和川・淀川流域連携水環境交流会、府民水環境ネット交流会など、積極的に参加し問題提起をしてきました。前の河川局長の尾田栄章さんとカヌー仲間を通じて知り合う機会があり、「水フォーラム」に参加して木津川の現状を発表したこともあります。子供たちにカヌーを通じて水辺の体験をと「水辺の楽校」にも取り組みました。
 2013年83才の時高木公三郎先生の功績を称え、形にして残したいとの強い意志で「遊びカヌー発祥の地」の石碑を笠置のカヌー広場に建立しました。

カヌー広場_石碑

晩年はフジタカヌーの一線を退き、過疎化する笠置町の町の振興を考えるようになります.

笠置町をたくさんの人々が集まる町、遊園地「総合アクティブパーク」のようにしたいと常日頃から言っていました。この地域をくまなく知り尽くすために車で走り回り、また歩き回っていました。

フジタカヌー工場は藤田清そのもの
フジタカヌー工場は藤田清そのもの

「大好きな木津川を、笠置の自然を多くの人々と共有したい、次の世代に引き継ぎたい」それが藤田清の思いであり願いです。この思いは、日本カヌー普及協会のメンバー諸氏に引き継がれています。